ライトスタンドプリースト 1


「ライトスタンドに、お坊さんが現れるんですよ。チベットの修行僧みたいな」
「はあ」
僕は気の抜けた返事をしてしまった。これは、仕方のないことだと思う。
今僕は、憧れのプロ野球選手にインタビューをしているはずだ。
だけど、野球とチベットの修行僧のあいだに、一体どんな関係があるというのだろう?
その至極まっとうな疑問は、彼への憧れの分を差し引いても、とても大きなものだった。


インタビューの相手は、中京セクシーキャミソールズのベテラン、井上達也内野手
僕がキャミソールズファンになったきっかけの選手だ。
ゴールデングラブ賞の常連で、その安定した守備と、持ち味の俊足を生かすべく、強くグラウンドに叩きつける打撃が売りの選手である。
ただ、よく言えばいぶし銀、つまりは地味な選手なので、学生時代に心無い友人から「井上って誰?」と言われ憤慨することも度々あった。
だがしかし、彼にはこんな似つかわしくない別名もある。
「ライトスタンドアーティスト」
ここぞという場面で、普段の打撃スタイルからは想像もできない、まるで天性のホームランバッターであるかのような豪快な一発を、ライトスタンドに放り込むことがあるのだ。
年間本塁打数が、片手の指にも満たない選手なのに、である。


例えば、去年のペナントレースの最終戦。これを勝てば優勝という大一番があった。
二点ビハインドの九回裏、セクシーキャミソールズは、ワンナウトランナー1、2塁の攻撃中。
6番バッター、強打のマクガイヤ選手が打席に入る。
ネクストバッターズサークルには、井上選手。
ここでマクガイヤに一発出れば、逆転サヨナラスリーランに優勝がついてくるという場面であり、球場一杯につめかけたキャミソールズファンの、声援とも怒号ともつかない叫び声が鳴り響く。
しかし、一発を狙いすぎて力んだのか、マクガイヤは浅いレフトフライを打ち上げてしまい、これでツーアウト。
瞬間、球場はため息まじりの悲壮感に包まれる。
だが、その静寂はすぐに打ち破られ、球場は再び更なる狂乱の渦へと化していく。


きっと予感のようなものが、あったのだと思う。
ネクストバッターは、キャミソールズファンの誇る、「ライトスタンドアーティスト」なのだ。


球場全体をおおう、あまりに熱狂的で、エネルギーを全てふり絞らんとするファンたちの、かろうじて人語と解せる絶叫の中、井上選手は、いつものようにゆったりと左打席に入り、バットでグラウンドを「コツン、コツン」と二回叩く。
そしてぴたりと相手投手に正対し、膝を曲げ、バットを肩口に寝かす。
いかにもいぶし銀らしい、いつもの彼の構えだ。
そしてこれまたいつものように、ほんの一瞬だけ視線をピッチャーから外し、ライトスタンドをちらりと見やる。
その瞬間、ほんの少しのあいだだけ、小さく彼が笑ったように思えたのだが、直後にライトスタンドへ向かって高々と放たれた逆転サヨナラ優勝決定ホームランの衝撃と、僕を含むキャミソールズファンの雄叫びのような歓喜の嵐がすごすぎて、どうにも記憶が曖昧なのである。


あのような、野球人生において最も緊張するであろう場面で、はたして「笑う」ことが可能なのだろうか?
僕は、あの打席で、彼がライトスタンドを見て小さく笑ったような気がした。
だけど、彼のそのような心理状態を、どうにも理解・想像することができず、それは小さなしこりとなって、僕の中でくすぶり続けていた。


僕は、インタビュアーとして、というより、キャミソールズ、そして井上選手ファンとして、どうしてもあの劇的なライトスタンドへの一発について聞いてみたかったのだ。


そしてその回答が、『チベットの修行僧』だったわけである。